人間はやり通す力があるかないかによってのみ、称賛または非難に値する
― レオナルド・ダ・ヴィンチ
この名言は、「努力」「根気」といった言葉の価値を、極端なまでに突き詰めた表現です。人の評価を一つの軸に集約するそのストイックさに、共感と戸惑いが入り混じる人も多いのではないでしょうか。
やり通す力、つまり「継続する力」や「完遂する意志」は、確かに何かを成し遂げるために欠かせない要素です。しかし、それを“唯一の評価軸”とすることには、ある種のリスクも孕んでいます。
「やり通す」ことの重み
どんなに優れたアイディアも、始めるだけでは形になりません。始めたことを続けること、そして最終的に完成させることによってのみ、初めてそれは「成果」や「実績」として認められます。
この視点に立つと、やり通す力の有無が人の評価を大きく左右するのも理解できます。途中で投げ出してしまえば、「結果を出せなかった人」と見なされてしまう。それは厳しくも、現実的な評価のあり方かもしれません。
社会は「最後までやり遂げた人」を称えがちです。スポーツ選手の引退試合、作家の完結作品、技術者の完成プロジェクト。それらに共通するのは、「投げ出さなかった人」に対する敬意です。
一方で、続けられない事情もある
ただ、この名言を絶対視すると、「続けられなかった人」への視線が厳しくなりすぎる危険もあります。
人は、体調やメンタルの問題、環境的な制約、経済的な事情など、さまざまな理由で「やり通せない状況」に直面します。それは必ずしも本人の意思や努力不足によるものではありません。
だからこそ、「やり通す力がすべて」と断じてしまうのは、少し乱暴でもあるのです。結果だけを評価の対象にすると、プロセスで見せた誠実さや、そこに至るまでの努力が見えなくなってしまうからです。
「やり通す」の意味を見直す
それでも、この名言が響く理由の一つは、「中途半端なまま終わることの多さ」に、多くの人が自覚的だからかもしれません。
やりたいことがあっても途中で迷ったり、別のことに気を取られたりして、最後まで形にできない。それが習慣になると、やり通す力はどんどん衰えていきます。
だからこの名言は、自分の覚悟や継続の力を問い直す、ひとつの厳しい指針として受け取るのがよさそうです。「やり通す力があるか?」という問いは、自分が本当に大切にしたいことを見極めるための鏡にもなります。
名言との距離の取り方
レオナルド・ダ・ヴィンチの言葉は、完成へのこだわりを持つ人ならではの視点であり、ひとつの生き方の象徴とも言えるでしょう。
私たちはこの言葉に対して、「すべてをやり通す」ことを目指すのではなく、「本当に大事なものだけは、やり通してみよう」と受け取るのが現実的かもしれません。
誰もが完璧にやり遂げられるわけではない。けれど、一つでも「最後までやった」と言えることがあるなら、それは人生における確かな誇りになるはずです。
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